あすなろの木

昨今話題になった「めざせ世界一のクリスマスツリーPROJECT」、私も違和感を覚え中止の要望に賛同・署名した一人です。
たまたまチャンネルを回したら情熱大陸でプラントハンター西畠清順氏とこのプロジェクトのドキュメンタリーが始まり、見ることにしました。

番組では一年前にあすなろの木を根ごと切り出すための準備の様子から神戸に立てられるまでの様子、そして彼の活動の一部を見ることができました。

ちょっと話は飛びますが、
最初にこの話を人づてに聞いた時、「またか」と思いました。
人の都合で木が切られる。
なぜ富山から神戸に運ぶ必要があるのか?

消費税が8%になる前、毎年カッコウがやってきていた雑木林も空き地も畑も分譲住宅になりました。
神社の木は防犯と落ち葉のために幹の半分のところでバッサリ切られ、
大きな金木犀、植え込みの沈丁花、ムクドリの集まる欅、どこからか種が運ばれて育った八手にピラカンサ、人の営みの近くにある木は皆切られてしまい、私には目についてしまうのでした。

けれども、それは西畠氏の言うように感傷でしょう。
家具も家も木を切って作られている。
今人が住んでいる場所、家が建っている場所には間違いなくかつて木や草が生え動物が棲んでいたのですから。
そして私だって花や植物は大好きですが、十一年花屋で働きましたから、花を毎日切って飾って売って捨てて–消費してきたのです。
デザインという名の下に草花は不自然に曲げられ、花首で切られ、カーネーションは4つに裂かれる。
フラワーエッセンスを作るためならば花を摘んでもいい。
かわいそうだから花は摘まないけどレンゲの花輪は編んでも罪にならない。
雑草は抜いて良くて高山植物は抜いてはダメ。
花はより美しく、野菜は丈夫にという目的で改良して良い。
クリスマスのために木は飾り付けて良いし切ってもいい。
ダンボール、トイレットペーパー、ピアノ、ヴァイオリンのためなら木を切って良い。
外国の森林は伐採しても自国の大木には保護する価値がある。
数え上げればキリがない。そんな矛盾は全て私たちが生み出しているものです。
そして善悪ではなく、人間と自然界とのバランスや協働に焦点を合わせるべきだとも思います。

次に私のように署名した人の多くが最初に引っかかったのはプロジェクトの名前、言葉だと思うのです。
「めざせ世界一のクリスマスツリー」「落ちこぼれのあすなろが世界一に」
日本一とか世界一とか、どうでも良くない?そんなことのために?あすなろが落ちこぼれってなに??
とね。

プロジェクトに中止に賛同の署名をしてしばらくして、ふと思いました。
起きている出来事だけを見ると、なぜ船に乗せて1000kmも輸送して、”神戸”にあすなろが、世界一と認定される高さのあの高い木が立てられたのか?ということの意味です。
人は自分の人生の主役を演じながら、他人の人生の脇役や大きな物事の一部を演じています。
西畠氏の夢とか動機はともかく、それは結果として成し遂げられたからです。

モニュメントとしてのツリーの存在。
大きな木を見上げる時、人は自分の小ささと共に心に”自然への畏怖” が生まれます。
そして世界一と謳うからこそその高い木はシンボルとなりニュースに取り上げられ多くの人に注目されることになりました。
多くの人がこの木を眺め、触れ、心を動かすでしょう。

もうひとつは神戸だったことです。
私は直感的に”鎮魂”のためだと思いました。
残った魂を天へと帰す役割です。
そのような意味がなければ、こんな大変な計画は頓挫したのではないかと思うのです。

このたくさんの人を巻き込んだプロジェクトは木を切る1年前から準備をし、地鎮祭もし、手を尽くして行われたのはわかりました。
彼は最初にこの木のてっぺんまで登り、あすなろの木と交流していました。
悪気は無いんです。関わった人々は植物が好きなんです。
私が誰かに切花を贈るように、彼らは木を運んで人を喜ばせたかった。

番組を見ながらその時のあすなろの木に繋がってみました。
私に湧いてきたのは困惑、そしてとうとうと語る声です。
そしていくつかのメロディを歌い、最後には涙が流れました。
「私はあなたたちのすることを責めません。けれども、私はなぜここから運ばれるのでしょうか?」

そして今、声は少し弱くなりました。
「私はここに運ばれてきたことを受け入れ、役目を理解しました。ここで生を終えます」
精霊はまだ木に宿っています。

P.S. ごく個人的に、西畠氏の言動や行動から感じるものは、海賊的な拡張思想ですし若い魂なのではないかと。鎮魂は、あくまで神戸が受け入れ先になったから付け加えられたファクターだったでしょう。
そして今回起きた鎮魂は、生きている人のためではないと私は思っています。

彼をみていて思い出すのは大英博物館のことです。
コレクションとして素晴らしいけれど、壮大な欲や自我の満足を得るためにもたらしたもので、世界中からあの大きな石像や何やかやを盗掘・盗んで運ばれたと思うとため息が出ます。
けれども、今アラブの春以降に遺跡が壊された現状を見るにつけ、運び出されていなかったら粉々に破壊されていたかかも、とも思えてしまうのです。あの場所に集約されていることで世界の人々の目に触れてもいる訳です。
そのように物事はホログラムであり、多層なのです。
しかも人には自由意志がある。
目に見えない世界の力も働いている。
そう考えるとき、一人を大勢で「あなたのすることは間違っている」弾糾することもまた独裁者と戦ったり帝国軍と戦ったりといった古いパラダイムと変わりないように思うのです。
一人一人の意思表示は良いのですが、集まって力を持つと危険だと感じます。
パワーゲームはそろそろ終わりにしたいものです。