自碁呂島兆

3連休の二日目、Journey on の活動 — Unknown Tea Roomで何をしようか、Shop Journey on for JOYの今後をどうするべきか、考えていました。
もちろん、散々考えたのですがあまり良いとは思えず決めきれない感じでした。

迷う時は大抵シャワーを浴びて部屋を片付けることに。
(やる気になるまでは散らかし放題だったりします)
今日は援軍も必要だとアラスカンのCalling All Angelsをまずスプレーして取り掛かりました。

なかなか火がつかず、途中で読書に耽ったり。
でもまあ、なんとか夕方には体裁は整いました。

片付けの途中で今年の正月に引いたおみくじが出てきました。
毎年 武蔵一宮 氷川大社で引くのが自分の中での決めごとになりつつあります。

第六番 自碁呂島兆(おのころじまのうらかた)
これは総て目上の人に従い、教えをうけて事をなせば遂げずと言うことなし。
進んで物事をなすによろし。
しかし万事相談が大切、魚と水との如くなるべし。
此のみくじにあう人は氷川の大神を信心すべし。

読み直してハッとしました。
「魚と水との如く」
「私は水の中で生きる それが自然だから」
私は流れの中で魚になれば良いのだと。
ならば目上の人とは水、あるいは水(命)の流れそのものだろうと思えました。
もしくは目に見えない領域のガイド的存在、ハイアーセルフ、意識体、内在神。

Unknown Soundを歌い、絵を描き、、日本語で受け取ろうとすると眠りに落ちました。

目が覚めて、このみくじを引いた当時見つけた二つのサイトを訪れ、自碁呂島についての頁を読み直しました。

ポリネシア語で解く日本の地名・日本の古典・日本語の語源

なんども古事記を読むことに挑戦してきて、いつも不思議に感じていたのは、神々の名前が外国語のようだと言うことでした。
当て字である漢字が余計に混乱を招いているのだと思いますが、なんど読み返してもその意訳はこじつけであるかのような違和感がありました。
その違和感が晴れたのが、ポリネシア語で解かれた音と意味を読んだ時でした。

古事記の秘密とはあめつちの言霊学

書いた絵のうちの一枚はおのころじまの事を表していると思えました。
中央に二つの細い螺旋があり、柱のようにも見えます。
その両脇と柱の中には神霊のような存在。
それを取り囲むように点線の勾玉のようなもので円が描かれています。

後の言霊学のサイトの考えによれば、国産みとは言葉をうむ事であったと捉えられます。
母音と半母音(先天性のもの)に舌(後天性のもの)が加わってかき回す事で意識の土台となる言葉ができた、と言う事のようです。
「思う」(日本語的土台)と「考える」(西洋の言葉的土台)の違いについても言及しています。
これは英語圏に住んだことのある人なら誰でも肌で感じる違いです。

おのころじまに天の御柱を見立て(天に繋がる柱を自ら立て)、そこで統合しことを成す。

それを学ぶのだと感じました。
短絡的な思考に陥ると、「何かしなければならない」と考えてしまいますが、そういうことではないのだ、と。
それは私のもっとも嫌うことでもありました。
新聞の頁数やニュースに割かれる時間は毎日決まっていて、そのような条件を埋めるために努力しているなどということは本末転倒だと思うのです。

あるいは、制限の中でできる限りの努力をするのがこの世的テーマだと言う人もいるかもしれませんが、私はもうそれは古いのだと感じています。

たとえ生活の多くの場面でそうしなければならなかったとしても、この時と場は誰に遠慮することもない私の産屋なのです。
このみくじに使われている漢字が淤能碁呂島ではなく自碁呂島とされているのも偶然ではないのかもしれません。