獣としての人とは

生まれ、生きて、子を産み落とし、育て、死んでゆく。
そういうものだ。

私には獣より植物の方が親しい。
20代後半まで、生物としての人の一生は植物のそれと大差ないと思っていた。
その頃の私は自分をタンポポの綿毛のような旅をする種になぞらえていたのだが、師であったアンドリューは人間は植物とは違うとはっきりと言い、いったい何が違うのかとぽかんとしたことを覚えている。
私がイギリス–西洋に行って(そういうおおきなくくりと対比によって)感じた差異の中には、人間が世界の中心であるという無意識の大前提と所有の概念、1個のものを立体としてとらえる存在というものへのフォーカスの強さ、そして唯一の神を信じる求心力があった。
それらは私が日本で暮らしていた間には意識したことが無いものだった。
たとえ自由意志と思考力、行動力を持つとしても人間だけが特別だとか、地球上の生物の中で優位だとか重要だとは思っていない。
ずっと人間は地球の地表を覆おうとする雑草なのではないかと思っていた。
そして植物界に私は純粋さと理想–美を見いだしていた。
わかっていたことは私の鏡は植物界であるが故に、自分に欠けている部分が多くあるということだった。
Plant KingdomとAnimal Kingdomの違いを思うとき、その差は個あるいはグループの結びつきの概念とより能動的に種を保存しようとすることだと思う。
そして獣にはアーキタイプとしての”情”がある。
獣とともに生きようとする主人公エリンの物語の中にそういう事が垣間見えたような気がした。

先を急いで貪るように読みたくなる本がある。
『獣の奏者』もそんな本だった。
そこには実在はしないけれど、見知らぬ国の言葉と文化と人の生き様があり、息づかいまで聞こえてくるようだった。
動物界を鏡にして、人のありようを問うのだった。

物語の命は芽吹くとどんどん育ってゆくと著者は言う。
「姿」というビジョンを持ちながらも決して構成を作るのではなく、注意深く「物語の佇まい」に耳を澄ませて言葉を紡ぎ整えるという方法を私なりに理解するなら、その過程もやはり”アチューンメント”なのではないだろうか。
創作するという意味において彼女は主神にもなりうるわけだけれど、私にはそうでなく、三位一体によって書いているように感じられる。
だからこそ、私は彼女の物語に惹かれるのだろう。

一週間ほどで読んでしまった。
そして『外伝』として書かれた五巻目の物語の中に、思いもよらず癒しがあった。
「人生の半ばを過ぎた人へ」
そうあとがきには書いてあった。
名指しされたようで、どきっとした。

獣の奏者 上橋菜穂子 著

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