節分、立春、新月を迎え3日目の昨夜、気づきがやってきました。
一つは怒りは自らにすぐに跳ね返ってくるということ、そしてその怒りの元となっていた深い出所です。
今の仕事に就いてから、よく怪我をしていました。
昨日もささくれから血が滲んで痛み、竹かごの穴に指を刺してしまい傷つけ、メガネを勢いよく壁にぶつけ鼻を打ち。
そこでハッとしました。
ずっと横目で見ながら数ヶ月知らんふりしていた仕事がありました。
なんでもしわ寄せを受け入れがちなパターンを改める意図とともに、これは私の範疇ではなく他にするべき人(責任を持った)がいる、というのが私の考えでした。
でも一向にする気配がない。
その日とうとう我慢ができなくなって怒りを持ちながらその仕事をしたのです。
すると直後にメガネをぶつけました。
その時の私の感情は「これは私の仕事ではない!」でした。
けれども次の瞬間ーーわかりました。
その仕事をしなければ気持ちが悪く我慢できなかったのは私。
自分のためにしたのだから、その怒りの矛先は収めなければならないということ。
でもふつふつと葛藤がまだありました。
なのでその怒りを”浄化の魔法”で中和しました。(きつねさんのこのツールは本当に役にたっています。)
夜新しいエッセンスが私にどう働いているのかに意識を集中していると、そのことが思い返され、スルスルと糸を手繰るように繋がりが見えてきました。
怒りを持って働いていた時、必ず怪我をしていました。
そしてもう一つのパターンがありました。
その深い根を辿ってゆくと、愛と敬意の欠如に向けられるものであり、尊厳を傷つけられることへの恐れと怒りでした。
怒りというはっきりとした感情が私に教えた”望むもの”は
それはやはり”愛”なのではないかと思いました。
人生の中で何度か愛を感じたことがありました。
失恋したと気づいた日、自分を馬鹿だな、仕方ないなと受け入れた時、胸のある一点からじわじわとお湯が滲み出るように温もりが拡がるのを体感したことがありました。
それは自愛でした。
次は人生の夏休み、大人になってから受けた教育の中で、恩師の問いかけと眼差しに人の成長を見守る仲間としての愛を感じました。
もう一度は冬のある日、窓拭きをしていた時差し込んでいた太陽の光にーー大きな愛を感じたのです。
そして1ヶ月ほど前、新たな愛の意味を知りました。
それは痛みや悲しみは水に流して、相手の差し出したままを受け容れるというものでした。
私を呼び寄せ旅をさせた”無条件の愛”という言葉。
それは大きな愛、神様の愛のようなものだと想像するのですが、今は人の持ちうるどんな形の愛も人を生かすのだと感じています。
その旅の終わりにーー生きる私たちが柱となって立ち、愛を発現することが地球全体の変容を促すのだと予感しました。
それは20年前にThe spirit of English を学びーーキリスト意識に触れたことから得たインスピレーションでした。
個人のハートからハートへのネットワークが地球を包む繭となり、地球は変容するというものです。
子供が意味がわからず覚えたての言葉を口走るように、私はそれを書き留めました。
今それがアセンションを指していて、現実として起こり始めているのだとわかります。
愛とは、やはり西洋的な言葉です。
でも西洋的な暮らしに慣れた私たちはハイブリッドと呼べるかもしれません。
愛を感じ取り、歌います。
それに、日本神話も旧約聖書もルーツは同じだと私は思っています。
日本語で愛にあたる言葉とは、やはり 尊敬、そしてありがとう になるのだと思います。
そこで繋がりあうのは人と神だけでなく、自然と個人の内に発露した内在神のネットワークです。
まだカオスですが、確信に迫ることができるのが二月のエナジーなのではないかと感じています。
そして、節分に受け取った旋律に乗る情報を記憶したエッセンスはそれをサポートしてくれると感じています。
P.S.
外で仕事をする中で今回のように学ぶことがあります。鏡を見てチェックしているようなものなのだと思います。