癒しは内から起こる。
だから、それがどんなに素晴らしい代替療法やヒーリングメソッドでも、そのままでは外から与えられようとしている(働きかける)状況そのものは、
科学・西洋・東洋医学に基づく投薬や治療で起こることの間に差異はほとんど無いように思える。
人を変えることはできない。(まったくとは言わないが、大きな意味において)
治ることを期待して自らが病院へ足を運ぶ、癒されることを求め代替え療法を試してみる意志を持っていてもなお十分ではない。
癒しが起こるには、深いところで受け入れることが必要なのではないかと思う。
そして受け入れた時、あるいは気づいた時には癒す必要さえ無くなっているのかもしれない。
それが治療ではなく原因とされるストレス、そして病名であったとしても。
ストレスを認めその存在に気づいたなら、それ以上身体がサインを送る必要がなくり、病む必要はなくなってしまうだろう。
けれども、かつて自分自身の中の問題をシェアしたあと、私は大きな動揺と落胆を感じ、こんなことしなければ良かったと後悔に襲われた。
問題のある人であるとまわりに、プラクティショナーに認めらることが、自分にとってゆるしがたいことだったのだ。
ただ、そのような反応は一時的なものであり、その状況を半ば降参してやり過ごすー受け入れることで少しずつ気づきが起きていった。
気づくこととは、受け入れたことにより起こる。
「あ、そうだったんだ」
それまでとは意識が変わった瞬間が訪れる。
ただ自分のありようを受け入れるだけ。そうして初めて気づくことができる。
癒えるとき、本来の自分をおもいだすと同時に、新しい自分に生まれ変わっている。
心身の限界まで生きて死を受け入れる時、順序や残った課題をスキップして大きな癒しを迎えることを赦されるのかもしれない。