旅の原点

Outlander
スコットランドが舞台の小説が原作のドラマ。

インヴァネスやフォートウィリアム、かつて訪ねたり通り過ぎたことのある街の名、石造りの家々や城。
そして馬で駆けるどこまでも続く緑の山と谷。
私にとって17年ぶりのその世界の息吹に胸が騒ぐ。

丘の上に立つスタンディングストーンのサークルから200年の時を超えてしまう主人公クレア。
しかし、その時代、どこであっても人が生きていくのは骨が折れた。
まして異国人の女性が何の庇護もなし旅をするのは容易では無い。
もっと行ってしまえば屈辱的でさえある。
命と女性性とふたつ守らねばならないものがあるからだ。
原作者がSなのか、毎回酷いシーンが含まれて生きた心地がしないのだけれど、このドラマに強く引き込まれてしまう。

現代は望むように生きることが許され精神の充足の為の旅も容易に旅も出来るけれど、それでもなお女であることは私にとって旅をする上では重い足枷だった。
中年になった今、枷は軽くなったけれど今度は別の肩の荷が重くのしかかる

その荷を置いてほいほいとは出かけられなくなった。
そして世界情勢もどんどん暗くなっていっていることが、心にブレーキをかける。
そうやって増えてゆく悪条件に私は尻込みするようになっていった。
もちろん、旅にでなくても日々の生活の中に意味を見出すことも必要な時間だった。
歳をとるということはそういうことなのだと思おうとしていた。

そもそも、古代から人が旅をしてきたのは生き残るために迫られてであったのであろう。
食物を得るために、住む土地を探すために、時に追われ、争いに巻き込まれ戦った。
そしてここに無いものを求めて、あるいは理想を実現するために旅をした。
いずれにしても、旅はいつでも身の危険を伴う過酷なものであった。
そんなことを「アウトランダー」は思い起させた。

そんな旅の原点を思うと、美味しいものを食べて楽しみを追及するだけの旅行をもとめてしまうのは一種の平和ボケのように思えてしまう。
けれども同時に、東京での暮らしは何のために生きているのか見失ってしまうほど過酷なものでもあると思う。
だからインダルジェンスとしての旅はバランスをとるために時には許されるのかもしれない。

日本から遥か遠い国、スコットランドのコミュニティへ手探りで旅をしたのは28の時だった。
それは人生2度目の危機的状況–虚無に支配されそうになったことを自覚して、生きる意味を探すための旅だった。
この春、その旅で出会ったMarionと東京で再会が叶った。
17年の間に2度ほど会ってはいたのだけれど、初めて出会った時から経った時間を振り返り、彼女も「あれから本当に長い時間がたったわね。」と言った。
彼女がFindohorn Flower Essencesを立ち上げて間もなく、カンファレンスを成功させた翌年私は彼女に出会った。
オフィスはまだPhoenix shopの前の建物にあり、そこはアイリーン・キャディが瞑想をしていた”トイレ”があった場所だった。
その小さなオフィスで1か月半、週3日くらいだっただろうか、エッセンスをボトルに詰めたりラベルを貼ったり、時にはエッセンスを作るのをお手伝いしながら働かせてもらっていた。
それ以降、私はフラワーエッセンスに助けられ自分と内と向き合う日々を過ごし、一緒に日本に帰ってきた。
しかし、コンピューターを使う仕事や東京を向いた経済優先の暮らしに飛び込むと、花に向き合うことは両立できなかった。
経済的な外へ向く生活と内を見つめる精神活動との間で行ったり来たりを何度かした。
そして10年以上経ち、エッセンスから離れて久しかった昨年、ほんの数か月の多忙で自分が壊れそうだと危機を感じた時、再び花を求めるようになった。
多忙は1年半続き、早々に音を上げ自ら終止符を打った。
危機的な状況が、「このままじゃいけない」スイッチをonにしたのだ。
スイッチした心はカチッと音をたてて別の方向へ向いた。
今年、彼女とエッセンスに再会した意味は大きかった。
ずっと未熟だからと保留にしてきたエッセンスを扱おうとする自分のスタンスが明確になった。

アラートが鳴り続けている。
東北での震災があって以来、もう少し落ち着くまで、祖母と両親が私の手を離れて身が軽くなるまで、と先延ばしにしていたのだけれど、もう時間がないのかもしれない。
思い返せば15年もの間、あまりにも長い間同じところで足踏みしていた。
課される状況にかかわらず、少しでもやりたいことに近づけるよう動いてみよう。
そうしなければ、と思った。
それが再び旅に出ようとする理由だった。

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