富士山麓へ

誕生日、休みを取っていたにもかかわらず気ばかりが焦り結局どこにも行きませんでした。
数年続けたエッセンスは作らず、ここは腰を据えて今年一年どうするかを内に聞いてみようと思いました。

迎えたAngelは PEACE 平和。
「どこかに所属していて、穏やかで不変という深い感覚。平静の状態を養いなさい。執着や嫌悪から解き放たれ、静けさの中で休みなさい」
平和とは深く繋がることだと感じました。
瞑想で受け取ったメッセージは Antarctica 南極 でした。

そしてやって来た連休に3年ぶりで富士山へ向かうことにしました。
私が所属している所は?
そう聞かれるとしたら唯一の答えは地球。
「あなた-地球-と生きる」というメッセージを受け取ったのも富士を訪れた時でした。

バスの車窓から見つけたのは桐の花。実がなる頃になると高く掲げられた神楽鈴(巫女さん舞う時に持つ)のように見えます。

河口湖の対岸へ。
予報では午後には晴れるとのことでしたが、そこに在るはずの富士山はすっぽり裾野まで雲の中でした。
少しだけ雲間から日が見えましたがそれっきりでした。

湖畔を散歩中、今まで気にも留めていなかった湖を取り囲む山々といくつかの花が気になりました。
紫華鬘、丸々としたタンポポ。
そこから河口湖浅間神社へ向かいます。

鳥居の前の石の門に立った時、突然何かがけたゝましく鳴きました。驚いて振り向くとーー雄の雉子でした。
羽をたたみながら何事もなかったようにゆっくりと歩き出し、やがて素知らぬ顔でこちらに目もくれず民家の生垣の中へ消えてゆきました。
雉子は国鳥なのだそうです。足裏が敏感で地震の初期微動を早くに察知するのだと最近知った所でした。

大鳥居から入るとどれも御神木と言って良いくらいの立派な杉の木が参道に並んでいました。
本殿は貞観7年(865)に富士の噴火の怒りを鎮めるために勅命によって建てられたとありました。その後焼失し、再建されています。
貞観という元号には見覚えがあります。貞観地震は富士山西北で起きた貞観噴火の後に起きていたのです。
2003年に受け取った「むかしのことを忘れず」というメッセージは貞観地震ーーひいては2011年の震災についてだと思っていたのですが、ちょうどその頃富士山の噴火が起きていたのだと今回知ったのでした。

御祭神は浅間大神ーー木花開耶姫命。
境内には7本の杉の木があり、どれも立派な杉の木でそれぞれの木にまつわる由緒が記されています。参拝してからこれらの木を順番に辿りゆっくりと境内を巡りました

ちょうど良いバスがなかったため歩いて湖畔近くのバス通りまで歩くことに。
道のそこここにある小さなお社、白い紙垂のものと赤い紙垂のものがあります。
確か境内の連理の楓に赤い紙垂が付けられていたように思います。また、中には石の社の下に木の棒が渡してあり神輿になっているものもありました。
そこには産屋ケ崎の文字が。
そういえば、来る途中バスを乗換えたところが産屋ケ崎という所でした。
調べるとそこには海から戻った山幸彦ーー彦火火出見尊 ひこほほでみのみこと と皇后豊玉姫命 とよたまひめのみことが祀られていて、木花開耶姫の孫にあたる鸕鷀草葺不合尊うがやふきあえずのみこと が産まれた所でありお社があるそうです。
この神社には木花開耶姫がこの御子をお見舞いされるという祭儀があり、その時には神輿に神霊と産衣、お産の用具が奉られるのだそうです。

産屋ケ崎で乗り換えるよりももっと手前にちょうど良い停留所があったにも関わらずGoogle検索で表示されたここに降りて20分ほどあたりを散策しました。
そして雲のスクリーンの向こうに在るはずの見えない富士山を湖畔から眺めていたのでした。
家の窓からも冬の間や晴れた日には富士山が見えるのですが、近くまで来て見えなかったのは初めてでした。
富士山が雲隠れしてしまうと、太陽が隠れた時と同じ気持ちになります

そんなことを考えながら歩くうち、草むらの中に再びキジを見つけました。そっと追いましたが、見ていないようでゆっくりとこちらから距離をとって離れて行ってしまいます。今回もその姿を写真に収めることはできませんでした。
縄張り意識が強いので、先ほどのとは違う雄のようです。
雉子について調べると、海外の方のサイトに興味深いものが。
様々な雉子についてのシンボルが解説されていて書ききれないので読んでて痛いな、と思った所を引用してみます。

What is my spirit Animal.com

“Look to your inner Pheasant Power Animal when everything you see appears dull and drab. Your sparkling vision seems muted. The Pheasant Power Animal returns a rainbow of beauty into your life. It reminds you to take a breather too. Stop focusing so much on BIG missions that you overlook the small miracles every day.”

“When you feel yourself pulling back on your shining talents, seek your Pheasant Power Animal. You have gifts for a reason. The Universe doesn’t grant sparkling spiritual aptitudes on everyone willy-nilly. Just use wisdom. You don’t have to fly the flag for everyone-only the right people.”

“When you struggle with being open to new experiences, Pheasant is a great Animal Ally. As you go down the road, stay true to yourself. Show off your feathers. Take a chance.”

他に道端で見つけたのは木通の花。
葉や蔓は見かけたことがあったけれど、花が咲いている所は初めて見ました。 
あけびは父に教えてもらって小さい頃から知っていた植物です。
木通のフラワーエッセンスがあるのを知っていましたので、和樂神楽のページを読んでみました。
男女の確執、家系にまつわる霊線を詰まらせるようなエネルギーの解消に良いと書いてありました。

少し話は飛びますが、古事記に興味があり自分なりに神様の名に出会うたび調べていたのですが、あるサイトを見つけました。
井上政行ホームページ
ポリネシア語で解く日本の地名・日本の古典・日本語の語源
http://www.iris.dti.ne.jp/~muken/timei05.htm,date of access:21/08/01
というサイトです。それから何度もこのサイトを開いています。
私が古事記を読み始めた20代の頃、なぜか日本の神様の名に違和感を感じていました。
もちろん、後世になって意味も通じるように漢字を選んだのでしょうが、音だけで当てた字も混じっているためわかりづらくなっているのだと思います。
古代の人々の名前の元となっている言語は今の私たちのものとは大分違うのだと感じていたのでした。
それが、このサイトで分かった気がしたのです。

個人的にヘブライ語と日本語の関係、学術的にはフィンランド語と日本語が近いと言われていることにも関心があります。
どれか一つが真実なのではなく、古事記もそうであるように多次元的な視点で見る必要があるのだと想像します。

さて、ポリネシア語を元に紐解かれた鸕鷀草葺不合尊の名前の意味を読むと、なるほどそこには男女の確執があることがわかります。出産を見られた皇后豊玉姫命はいたたまれず子を残して海に帰ったそうです。
海幸彦と山幸彦との兄弟の確執も然り。
家系で繰り返されているパターンについて考えていました。
木通を見たときに思い出した私の父は長男でしたが戦死した祖父のあとを叔父にあたる弟が家を継いだことによって東京に出てきました。その後叔父達は早くに亡くなってしまい私も独り身ですから実質家系は立ち消えることになりました。
振り返ると父は継げなかったために持病がありながらも長生きしたのかもしれません。
加えて父の人生で起きたトラブルの多くは最後の後継として私たちの分も背負わされたのかもしれないと思うのでした。

その夜温泉からの帰り道で遊園地のライトアップを目にしましたが部屋から写真を撮ろうと思って買い物をして部屋に戻るとすでに閉園。機を逃してしまいました。

翌朝ホテルのガーデンの一角に白樺が植えられている場所でUnknown Soundを歌いました。
その足元には小さな菫がたくさん咲いていたのですが、最初は気づけませんでした。近寄って初めてその存在に気づいたのです。
一度気づけば小さな花が見えるようになります。
Findhorn Flower Essences には Birch白樺のエッセンスがあります。白樺はVisionや意識の拡大、そして目に関するエッセンスです。
昨日からの出来事とリンクしているように感じました。

再び温泉からの帰り道、渡り廊下の窓から富士山が見えました。朝食会場でも山頂の周りの雲が完全には晴れず、結果的には廊下で見たあの一瞬がその日のベストショットでした。

朝の瞑想で聞いたメッセージでs

“私たちのようにこの世界に降りて来た魂たちは
この時が来るのを待っていました
光輝く新しい世界を
見えなくともすでにそこに在る世界を感じ取ることができるでしょうか”

富士山はそこに在る
雲に隠されているただけでそこにあるが、見えないというだけで世界が暗くなり拠り所をなくしたような気になってしまう
しかしまた、圧倒的な姿が見えないことで周りの山々が見えるようにもなる
遠くから苔の地面を眺めていると小さな花には気付けない
けれどもその姿は一度見つけられたなら目隠しを外したように見えるうようになる
富士山とい大きなものの足元に遠くから見たら分からないほどの小さな菫の花
私という存在をその花に重ねたのかもしれません

そんな風なことを思った旅でした